バンタンはKADOKAWA(東証プライム上場)
のグループ会社です。
KADOKAWA Group
1965年に創業者、菊池織部(以下、織部)によって恵比寿に誕生した「バンタンデザイン研究所」。バンタンという社名はフランス語で20歳という意味を持つ「vingt ans」という言葉を語源にして生み出されました。20歳というのは若さ、可能性の象徴のような年齢です。織部も創業当時は20代。同じ世界で戦う仲間を育てたい、新しい世界で羽ばたこうとする若い才能を育てたい。そんな想いで事務所の近所に住む方々を呼び込み、デザイン事務所を経営する傍ら「寺子屋」のような、今でいう「塾」のようなものを始めました。
当時の日本には「デザイン」という言葉すら浸透していませんでした。海外から取り入れたものを市場に流す。「製造」はしていても「創造」はしていなかったのです。グローバル化が進む時代、このままでは世界に置いていかれ日本は衰退していくだろう…。本当の意味でデザインする人を育てなければいけない。そんな想いでバンタンデザイン研究所はスタートしました。
当時は2000円〜3000円ほどの授業料。しかし、資金が苦しい中でも世界で活躍しているようなアーティスト、デザイナーを講師に呼び、質の高い授業を行っていました。「実践教育」の原点となった当時の試み。必死に説得し、有名な方を呼び込む。次第に人から人へバンタンの名は広まり、参加する人も増えました。
織部の提案でトレンド提案型ファッションショーを行っていたのもこの頃です。グラフィックデザインを教えていたバンタンが、ファッションの専門校という印象を世間から持たれるようになりました。
創業者 菊池織部
織部がファッションが好きだったことやデザイン事務所のクライアントでアパレルメーカーがいたことから徐々にファッションデザインの提案も始めます。1967年には「サイケデリックファッション」「ポップファッション」を提案し、マスコミに大きく取り上げられました。雑誌の表紙を飾ることもあり、さらにバンタンの名が広まることとなったのです。
60年代当時、「デザイン」と掲げるだけで馴染みがなく忌避されてしまうような時代。資金が足りず、「もう辞めてしまった方がいいのではないか」、「明日には潰れてしまうのではないか」という不安の中、それでも織部は“デザインのチカラ”を信じ、新しい価値を生み出せる人材の育成により力を入れます。社名に込めた「若い可能性を育てたい」。その熱い想いだけは決して折れることはありませんでした。
サイケデリックのファッションショー
創業当時織部たちはビルの一室を借りてデザイン事務所兼スクールとしていました。しかし、そのビルを買収したいという企業が現れたため、織部たちは移転するための資金を企業側から得てその部屋を出ることになります。まさに「運」といっていい出来事。その資金を基に1969年に本館を完成させました。
本館ができたタイミングで社会人向けのコースだけでなく、大学・短大卒業者を対象にしたプロ養成カリキュラムも開設しました。それまでは夜間コース、全日制コースなどの区分けがありませんでしたが、ここで現在の全日制、社会人向けの夜間コースなどの基礎ができたのです。一期生には30人の生徒が全国から集まり、毎日授業だけでなく夜遅くまでデザインについて熱い討論が行われました。時にはお酒を酌み交わし、生徒、講師、スタッフ、全ての人が好きなことに邁進し、未来への可能性に胸躍る毎日を送っていたのです。織部がパーティー好きなこともあり、生徒の誕生日は必ずみんなでお祝いしていました。
さらに高校卒業者が入学することができる「1~3年制コース」を編成し開始しました。しかし、ここでも生徒の確保はまだ難しいものでした。10代の学生を対象としたために「親」の意向が大きく影響したのです。業界からの需要もある、生徒の意欲もある。しかし、バンタンが学校法人ではないために子どもの進学に難色を示す親御様が多かったのです。また、学校法人ではないためにいわゆる「進学雑誌」に掲載することができず、自分たちの魅力を伝える場も限られていました。
そんな中でバンタンが行ったのが一般誌への広告出稿。普通の雑誌に生徒募集の広告を打ち、往復はがきをつけて資料請求を受け付けたのです。この施策により生徒の応募が急増。業界をまったく知らない真っ白な状態からデザイン業界を牽引する人材へと成長する生徒たちが生まれました。創業から15年以上の時がたっていましたが、最前線を走るプロ講師による「実践教育」のポリシーは貫きます。創業当時は有名なデザイナーの講習で集客を得るという目的が大きかったかもしれません。しかし、スクールが大きくなるとともに知名度も上がり集客も安定して行えるようになってからも実践教育を続けたのは生徒たちに常に「新しい刺激」を与えたかったから。100のインプットがあって初めて1のアウトプットができるといわれている業界です。「変わらないもの」と「変わるもの」、常に2つのセオリーを学び続ける必要があると考えたのです。
産学連携プロジェクトにおける作品を
ブランド化した「バンタンクラブ」
1991年にバンタン電脳情報学院(現:バンタンゲームアカデミー)を開校しました。現顧問である石川広己(以下、石川)がIT関連に詳しかったことで開校にいたった本学院。当時まだ認知度が低く、ファッションとは違うイメージを持たれていた「ゲーム」事業を始めることに社内で反対の声もありましたが、開校するとともに生徒が殺到しました。時代の流れを読み、創成の時期にある分野に踏み込んでいく。この時期、ゲームだけでなくヘアメイク学部の設立やバンタン製菓学院(現:レコールバンタン)、バンタン映画映像学院(現:バンタンデザイン研究所映像デザイン学部)など事業を大きく広げました。その勢いは凄まじく、場所が足りなくなるほどです。東京だけでなく全国へと拠点を拡大。より多くの可能性を持った生徒たちがバンタンの教育を受けられるようになったのです。
事業拡大には、1992年に織部からバンタンを引き継いだ、弟の菊池健藏(以下、健藏)のビジネス力が大きく影響しています。もともとクリエイター気質で感覚的な織部とは逆に、ロジカルな思考を重んじる健藏。創業当時は高校生だったため事務所の手伝いなどを行っていましたが、コンサルティングなどの研修を受けビジネス力を養い、1986年に企業教育部「バンタン総合研究所」を設立。企業に対しコンサルティングを行う傍ら、経営力・営業力を持ったスタッフの教育に重きを置き、経営基盤をつくってきました。クリエイターの織部とビジネスマンである健藏、2人の力が合わさり会社は一気に成長していったのです。
現在では学校法人としての登記も可能ですが、それでも企業としてスクールを運営する理由の一つに時代に合った教育内容を最速のスピード感で行うことができる「カリキュラムの自由」があります。新しい試みをいち早く実践することができるのです。スクールを開校する前にその事業を実際にやってみるというのも特徴的です。バンタン製菓学院を始める際にはフランス料理店や喫茶店、カフェ、寿司屋なども実際にチャレンジしました。バンタン電脳情報学院の際にはゲーム制作も。新しいことをファーストワンで挑戦していくために、まず自分たちでやってみる、開拓していく。スクールを始めた時にスタッフたちの身を持った経験はカリキュラムなどに反映され、即戦力となる人材の育成に大きく影響します。
現代では珍しくなくなった企業の教育機関。先述した通り、学校法人ではないために忌避される時代もありました。それでも企業として駆け抜けてきました。事業拡大には利益を上げるという目的もあります。なぜ利益を上げるのか。生徒、講師、スタッフ…バンタンに関わった人すべてが幸せになって欲しい、幸せにしたいという想いがあるからです。しっかりとした売り上げを立てることで新しい教材、著名なプロ講師など安定して最先端な学びの環境を提供することができるのです。
2002年、組織再編成を行い社会人向け事業を統合。2011年に株式会社バンタンを設立。デジタル化が進む時代に沿った総合力のある会社へと成長します。
創業者の菊池織部からバンタンを
引き継いだ弟の菊池健藏
織部、健藏が注力していたことの一つに「海外との取り組み」があります。現代のように多くの日本人が海外で活躍する以前から、グローバル思考がいかに重要かを考えてきたバンタン。プロ講師が海外で得た知識の提供も生徒たちには大きな刺激となっていましたが、より濃厚な学習を提供したいと考えていました。世界中の未来ある若者が集まる世界3大ファッションスクールParsons School of Design - The New School(以下、パーソンズ大学)との提携はまさに願ってもないこと。兼ねてよりパーソンズ大学と結びつきたいと考えていましたが、90年代初期に大学に打診した際は断られた経験がありました。2000年代、事業が拡大し、多くの優秀な人材を輩出してきたことが認められ、ついに2008年日本で唯一となる単位互換留学提携を開始。毎年十数名のバンタンの生徒たちをパーソンズ大学に送り出しています。
さらに2009年、バンタンデザイン研究所が企業の教育機関で初めて外国人の入学者受け入れを始め、各国のファッション分野の優秀な生徒たちが集まるスペシャルクラス「International X-SEED」を開校。恵比寿で始まった小さなバンタンは世界中の若者を育て上げるグローバルな教育機関へと成長していったのです。
「デザイン」という言葉が浸透した今、デザインにはさまざまな意味が内包されてしまっています。バンタンが考えるデザインとは「0から1を生み出す創造力」です。生徒たちには革新的な発想でまったく新しいものを生み出していってほしい。その力こそが昔も今も普遍的に必要とされているのです。新しく誰も挑戦していないことを。「創造的破壊力」で既存の概念を打ち壊せ。
「本当の意味でデザインする人材を育てたい」。織部の想いは今もバンタンで継承されています。